平均正答率:54.1%/平均正答数:29.8問

Q1〜Q10

【Q1】

 横須賀中央駅近くに平坂貝塚があります。ここから出土した人骨から縄文時代の人の生活状態がわかりました。さて、どういうことがわかったのでしょう?

[1] 縄文人たちは想像していたより食生活が恵まれていた
[2] 縄文人たちの間にも接骨医がいた
[3] 縄文人たちはしゃがむスタイルで作業をしていた

【正解】[3] 正答率:45.2%

平坂貝塚
 縄文時代早期の成人男性の骨が出土した。この人の特徴はひざや足首の関節の磨耗が激しく、これは長いことしゃがむ姿勢をとっていたことが原因と考えられる。
 また、歯は口の奥からくちびるにかけて磨り減っており、歯を使って皮をなめしていたものと思われる。さらに少年期に飢饉があったのか、骨の密度がうすい部分もある。

横須賀市児童図書館前の説明板

【Q2】

 京急・三崎口の近くにある赤坂遺跡は三浦半島では最大級の弥生時代の遺跡です。この遺跡の住居の柱はどのくらいの太さがあったでしょうか?

[1] 80センチ
[2] 100センチ
[3] 150センチ

【正解】[1] 正答率:25.8%

赤坂遺跡
 京急・三崎口から引橋方面に向かった国道の両側が赤坂遺跡。三浦半島では最大級の遺跡で、古くからその存在は知られていた。
 ここの特徴は巨大住居があることだが、その大きさは15m×12mぐらいあり、赤坂遺跡のランドマーク的存在であったと思われる。

三浦市菊名の白山神社裏横穴古墳

【Q3】

 三浦半島には多くの横穴古墳がありますが、この特徴は?

[1] 穴の口がほぼ東から南を向いて開いている。
[2] 穴の中の壁に絵が描かれている
[3] 穴の中には必ず壺が埋められている

【正解】[1] 正答率:61.3%

横穴古墳
 三浦半島で一番多い古墳墓。この古墳に葬られているのは地域の権力者とその家族と思われる。古墳は風葬であったので、早く遺骸が骨になるように、日当たりのよい東から南に口を開けて造られいる。

【Q4】

 走水神社には日本武尊と弟橘媛命の伝説があるが、この時日本武尊に料理を出し、武尊が大変に喜んだ料理とは?

[1] はまぐりの膾(なます)
[2] かつおのたたき
[3] 鯛のさしみ

【正解】[1] 正答率:71.0%

日本武尊伝説
 走水へ滞在の折、地元のものでもてなしたが、その内のはまぐりの膾(塩や酢で〆たもの)が大変に気に入り、この料理を出した者を料理人として召抱えて、大伴黒主と名付け、旅へ同行させたという。

横須賀市の走水神社にある包丁塚

【Q5】

 鎌倉幕府を開くことに貢献したが三浦大介義明とその子義澄であった。では義明の父親の名前は?

[1] 為継
[2] 義盛
[3] 義継

【正解】[3] 正答率:67.7%

三浦三代
 三浦氏を名乗ったは大介義明の祖父・為継からであり、その子は義継と続く。
 大矢部の清雲寺の本堂裏の墓地には、三浦氏の祖・為通、為継、義継の墓所がある。

【Q6】

 三崎の海南神社の祭神は藤原資盈ですが、彼が三崎に来た日を祝して行われる行事は?

[1] ちゃっきらこ
[2] 海南神社の例祭
[3] 面神楽

【正解】[3] 正答率:45.2%

海南神社
 祭神の藤原資 公が三崎に漂着したのが、11月初めの未の日で、飢えと寒さのため衰弱していたのを見た里人が菜粥を供した。この日は「菜粥の神事」をあげ、翌申・酉の両日に神楽をあげて、歓迎の意を表した。これが面神楽の由来。
 現在は三浦市の無形文化財となっている。

面神楽

【Q7】

 逗子に六代御前のお墓がある。六代御前は平家の嫡流であったため、この田越川のほとりで斬刑になった人物。では彼の曽祖父は誰?

[1] 平清盛
[2] 平維盛
[3] 平敦盛

【正解】[1] 正答率:58.1%

六代御前
 文治元年(1185)平維盛の嫡男六代御前は、捕らえられていまったが、文覚上人の助命嘆願で助けられ、仏門帰依して「三位禅師」として仏道に励んでいたが、正治元年(1199)頼朝の死後再び捕らえられて、田越川の畔で斬られた。六代とは平正盛から数えて、六代目にあったのでこのように呼ばれている。清盛は三代目。

六代御前墓

【Q8】

 徳川家康の外交顧問として活躍した三浦按針(ウィリアム・アダムス)は、どこの国の人?

[1] オランダ人
[2] イギリス人
[3] スペイン人

【正解】[2] 正答率:67.7%

三浦按針(ウイリアム・アダムス)
 オランダ船リーフデ号が慶長5年(1600)3月、大分県臼杵へ漂着。イギリス人アダムスは家康の外交顧問として活躍した。
 領地は逸見にもらった。

ウィリアム・アダムス像
(横須賀市自然・人文博物館)

【Q9】

 伊豆下田にあった奉行所は享保5年(1720)浦賀へ移転してきたが、このときの奉行は?

[1] 長谷川七左衛門
[2] 堀利雄
[3] 仙石政寅

【正解】[2] 正答率:48.4%

 享保の改革の一環として、江戸の物価統制を図るために、伊豆下田から江戸湾の入り口にある浦賀へ奉行所を移転し、船番所を置き、江戸へ出入りする船の検査を行なった。この浦賀奉行所の初代奉行は、最後の下田奉行であった堀隠岐守利雄。
浦賀奉行所模型(浦賀文化センター)

【Q10】

 1853年7月、浦賀沖に来航したペリーのあだ名は?

[1] スチームマン
[2] キャップ
[3] 熊おやじ

【正解】[3] 正答率:51.6%

 嘉永6年(1853)6月、ペリーに率いられた2隻の蒸気船と2隻の軍艦が浦賀沖へ来航した。
 アメリカ東インド艦隊の司令官ペリーは、アメリカ海軍に蒸気船を投入して人物で蒸気軍艦の父といわれている。
 そのペリーの愛称は「熊おやじ」。これは体型からであろうか。

ペリー胸像(横須賀市ペリー記念館)




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